今年の全日本剣道演武大会は武徳殿建立100年を記念した、冠大会として例年どおり5月3日から4日間開催、昨年を上回り過去最高を記録した参加者により武徳殿一帯は賑わいました。記念行事として全剣連と京都府剣連が共同して、記念碑を建立し、5月4日に除幕式を行ったほか、4日には剣道開始式の際に、来賓の祝辞を戴いての式典も行い、明治32年に竣工、武道の波乱に満ちた100年を見つめてきた武徳殿の100年を祝うことができました。参加者の有志には賛助金をお願いしておりましたが、記念品の京扇子とリーフレットを贈呈しました。
演武大会は参加者の熱意と、運営を担当された京都府剣連の方々のご努力により、充実した内容をもって終了しました。前年のような事故もなく、初期の目的を達したものと考えています。先にも触れた、組み合わせ作業の合理化など、運営面での改善は、検討の上来年の大会から実行したいと存じます。
100年を記念して何か後の世に残るものをつくってはという構想は、当初からあったのですが、京都府剣連吉田理事長とお話し合いをしているうちに、記念の石碑を建てようということになりました。作るなら恥ずかしからぬものをということで進められ、予期した以上の立派なものを作ることになりました。問題の建設費ですが、京都府剣連側でも一部負担するということで話が決まりました。建設場所が武道センター内であること、今後の保守の点も考慮し、物件は京都府剣連のものとして貰い、全剣連は11年度予算に計上した拠出金を、京都側に寄付することとしました。
石碑は表紙の写真で見られるように、高さ4メートルを超すもので、石材は長野、岐阜の県境付近の産の黒御影石とのことです。運搬、基礎掘削などに予想外の手間がかかり、予算上の問題は残りましたが、堂々たるものが5月4日の式典に間に合わせて完成しました。
話を少し戻しますと、石碑の碑文をどうするか、誰に揮毫を頼むかなどが問題になりました。しかるべき名筆家を探すなど、いくつかの案が出ましたが、現在の全剣連会長が書くべきだという案が、吉田理事長から出て全剣連の幹部も皆賛成で強く要請されました。その任にあらずと辞退しましたが、現在の責任者が書かないと、誰に頼んでも問題を残す、字の巧拙は問題でない、名士でも随分下手な字の石碑が京都にもあるなど、各種の論理で説得され、押し切られました。元来記念事業を言い出したことでもあり、清水の舞台から飛び下りる気持ちでお引き受けすることにしました。
実行にあたり碑に刻む語句は、在り来たりのものの孫引きはやめることにし、ご覧戴いたように「武徳薫千載」という語を考え揮毫しました。改めて説明の要はないかと思いますが、武徳殿100年を記念する石碑に記す語は、ただ100年を顧みるだけでは物足りないので、ここで培われるべき武徳は、今後千年にわたって芳しく薫るものであって欲しいとの意を表したものです。しかしこのほかいろいろの読み方、解釈があって然るべきと思っています。武徳殿を巡る100年の沿革については、石碑の裏に記した文章を掲げます。少し堅いのではとの評はありますが、私の文案を中心に纏めたものです。
ともあれ国の重要文化財として、武道の浮沈を眺めてきた武徳殿の100年を顧み、その建設、さらに戦後の存続、護持、保全に尽力された方々のご努力を、この際改めて想起し感謝の意を捧げたいと思います。さらにこの行事を剣道界が中心になって実行したことは、長い目で見て大きな意義があるものと確信しています。計画の実行の際ご尽力、ご協力戴いた多くの方々に感謝の意を捧げるものです。
5月3日の大阪市中央体育館は、満員とまでは行きませんでしたが大勢の観客を集めて激戦が展開され、地元大阪府が見事優勝、初めての優勝兜を手にしました。女子選手の充実は感じられましたが、全般の水準はもう一歩という感もあり、来年は各剣連がさらに充実した戦力で大会に臨み、優勝を争うことを期待しております。
休み前の5月2、3日に持ってきた剣道六・七段審査会は、審査員や実施側担当者に負担を伴いますが、受審者には好評をもって迎えられたと思います。演武大会後の剣道八段審査会は、10名の合格にとどまりましたが、第一次審査の会場で合格率が著しく低い会場があったのが目立ちました。全体のバランスという点で、審査会として問題が残りました。
剣道範士の審査は例年よりも厳しい結果となりましたが、来年より実施予定の新しい審査制度における範士の位置付けの考えを反映したものと受け取っています。
本年が設立30年を迎えた欧州剣連主催の選手権大会は、キリスト教の奇跡の起こる場所で知られている、南フランスのルルドで4月16日から3日間開催、団体戦でフランスが予選でイタリアに星を落としましたが、決勝では勝ち上がってきたドイツに圧勝、連続優勝を決めました。しかし上位の力が接近してきたことが印象づけられました。試合より見事だったのは、終了後に行われた合同稽古でした。150名を超すと思われる20カ国の各国役員、選手が入り交じっての稽古での真剣な姿は、欧州剣道の今後の発展を予感させるものがありました。
5月15、16の両日、アジア地区久方振りの審判講習会が韓国ソウル市で開催され、香港、台湾を含めた4カ国から高段者30名が参加、日本側講師の指導のもとに実施しました。講習自体の効果とともに、お互いの交流、親睦を図る上で大きな効果が上がったものと思います。行き届いた準備、運営に当たられた韓国の剣連の方々のご尽力にお礼を申し上げます。
石碑の裏に記した文章
顧みれば近代国家への転身を進めた明治維新によって多くの改革が行われたが、一方伝統の文物への影響も大きく、武道も一時衰退の道をたどらざるを得なかった。しかし国運の進展とともに武道復興の気運が高まり、明治28年全国的組織である大日本武徳会が結成され、平安神宮の地に武徳殿の建設が決まった。明治32年3月その完成とともに、武徳祭大演武会はここを舞台として毎年5月に行われ、第二次大戦期に至った。昭和20年の敗戦の後、武道は占領軍の武道禁止令などにより、困難な時代を過ごさざるを得なかった。しかし剣道の伝統と精神は絶えることなく、独立回復とともに蘇り、全日本剣道連盟が結成され、毎年5月の大会も復活して全日本剣道演武会として今日に至っている。昭和62年には剣道界も協力した大改修が行われ、武徳殿は創建時の偉容を回復し、平成8年国の重要文化財の指定も受けた。
の武道家が修錬の成果を競った武徳殿が建立100年を迎えるにあたり、関係者相図りその歴史を今後に残すものである。
平成十一年五月
*本文中では、京都府剣連・吉田理事長の姓の旧字体を置き換えてさせていただいています。予めご了承ください。