待ちに待った秋の訪れを迎えましたが、異常気象が続き、緩慢な動きの台風12号は近畿南部に空前ともいえる豪雨をもたらしました。和歌山県・奈良県・三重県の一帯に大きな被害を与え、多くの犠牲者が出ました。また東日本大震災から半年経ちましたが、その復興も軌道に乗っていません。度重なる災害で被害を受けられた方々は本当にお気の毒です。
一方、国際経済の面ではドル安に端を発した未曽有の円高となりました。厳しい国際競争の中、先行きの見通しが立たずに苦しんでおられる産業界の方も多いことでしょう。
内外の相次ぐ国難を被る時期に、かねて低支持率に喘いでいた菅内閣が退き、野田内閣が発足しました。日本が直ちに繁栄を取り戻す方向へ進むことが期待できる陣容の内閣かどうかは疑問ですが、ともかく日本が内向きに偏らぬ政治を進め、国勢の立ち直りに繋がる道を目指して欲しいものです。
さて波乱の中、剣道界は目白押しの夏の行事をこなし秋を迎えました。学校関係の大会のほか、強化の訓練もしっかりとこなしました。錬成を重ねて厚みを加えた力を試す多くの大会が待っています。 さて業務面では、関係者に努力して頂いた、新しい法人への切り替えのための手続きが進み、一般財団法人としての申請を8月に済ませました。あと官庁の認可待ちということです。
一方、文化の秋の一翼を担う剣道界の行事も進みました。それは第15回を迎える剣道写真コンテストです。去る9月6日(火)に審査会が行われ、多数の応募作品の中から、優秀作品が選ばれました。ここでの主役は例年どおり少年・少女の剣士たちです。応募された作品の撮影に際し、カメラの側からの大人たちの、愛情を込めた視線が感じられる作品ばかりでした。
入選作品は例年のように、11月3日(祝)、全日本剣道選手権大会の日に発売される来年度用全剣連カレンダーを飾りますので、ご期待ください。そこには別の側面からの剣道の美しさと良さが、生き生きと表現されています。
夏は剣道段位審査のシーズンでもあります。全剣連直営の七・六段審査のほか、剣連での五段以下の審査が全国的に行われましょう。
全剣連の行う審査会は、本年は七段審査の会場を増やして、金沢・福岡の2カ所で行われ、六段には沖縄での審査が加わり、いずれも暑い中、真剣な受審者による活発な審査会が行われました。
まず、剣道七段審査は、受審者は金沢578名・福岡770名、合格者はそれぞれ81名・116名で、合格率は14.0%と15.1%とおおむね安定した結果でした。
剣道六段審査を見ると、受審者は金沢620名、福岡848名に対し、合格者128名と197名で合格率は20.6%と23.2%でした。また久方振りの沖縄での六段審査は、100名の受審に対し、25名が合格されました。
全般的に見て各会場とも、まずまずはバランスの取れた審査結果が示されたものと見ています。
受審者・審査員とも努力の結果が出ているものと見て良いでしょう。
第38回を数える標記講習会が9月10日(土)・11日(日)の両日にわたり、京都岡崎の武道センターで開催されました。この講習会は居合道の全国の熟達者が集い、ベテランの講師の指導の下、共に居合道の修錬・研究を行う講習会で、各都道府県から参集する講習生合計102名の内、半数以上が範士、八段というハイレベルの講習会です。
全剣連居合の「指導要点」についての合同の講義のあと、段位・称号によって7グループに分かれての講習のほか、審判実技、古流の研究などの科目について日程を進め、有効に講習を終えました。
全国から102名が参集した居合道講習会(筆者写す)
今年の写真コンテストの応募作品は約300点で、昨年に比較して少なかったのですが、少年・少女剣士の捉え方など、優れた作品もあり、まずまずの水準のコンクールとして、入賞作品が選ばれました。紹介記事ならびに発表されるカレンダーで御覧ください。
審査員・役員による審査の様子(筆者写す)
東京都剣連主催の剣道八段選抜大会を初めて拝見しました。都内また近県から選ばれて参集した、60歳までの32名の八段剣士の優勝大会です。5分の試合時間による対戦は、お互いに知り合っている剣士同志の試合が多いせいか、全国大会に比べて、身内の戦いという雰囲気も感じられました。結局決勝は、佐藤勝信八段と恩田浩司八段の警視庁同士の試合となり、佐藤八段が優勝しました。立派な決勝戦でした。
前号に続いて日本剣道形を取り上げます。
明治を迎え日本のあらゆる分野での新体制に移行の流れの中、日清戦争での勝利がキッカケとなって、衰退した武道を興そうという動きが高まり、大日本武徳会が明治28(1895)年設立されました。そして武道の振興を図るため、現在岡崎に偉容を誇る武徳殿の建設、毎年の演武大会の開催、また教育機関としての武術専門学校の開校など、多くの事業を展開しました。
その後、国民への武道の普及を図るため学校教育に正課として取り入れるべきとの運動が行われ、難航はしましたが、武徳会発足して10年後の日露戦争の勝利などで、武道振興への国民の意欲向上などを背景にして機運が盛り上がり、実現への期待が高まりました。
しかし当時の剣術は、江戸幕府時代に多くの流派が乱立した状態が引き継がれた有様でした。それぞれの流派が形による異なった剣技の体系を持っており、当然の事ながら門外不出で、一門の中でもこれに近い状態でした。当時の流派は100を越えた数と見られています。(高野佐三郎―『劍道』による)
学校教育で剣道を指導していくためには、基本となる形を統一したものとしてまとめることが必要とされます。武徳会ではその必要に応えるため、形制定のための委員会を明治39(1906)年7月に設け、武徳会剣道形につき答申を求めたのであります。
委嘱に基づき範士、子爵渡辺昇を首席とする委員会で三本の形による案をまとめ、会長に答申し、これが同年12月、大日本武徳会剣道形として決定されました。そしてその普及を図ったのですが、全国に各流派が存在している中、この案は評判が悪く、剣道界から受け入れられず、出直しのやむなきに至りました。
一方、明治44(1911)年7月の改正中学校令施行規則において、正課として剣柔二道を加える事になりました。この情勢に対応して、武徳会は基本となるべき形として、各流派を超越して、新たに一般的共通のものを制定する必要に迫られました。そこで武徳会としては、今回は慎重に剣道各界の意見も徴し、これまでの武徳会剣術形を超え、国内全般で行われるものとしてまとめる方針を固めました。
そして同年12月20日武徳会は剣道形調査委員会を設けることを決定しました。委員長には大浦兼武武徳会会長が当たり、副委員長には嘉納治五郎東京高師学校長、委員は25名でうち5名が主査とされました。主査は根岸信五郎(東京)、辻 真平(佐賀)、内藤高治(武徳会本部)、門奈 正(武徳会本部)、高野佐三郎(東京高師)の5名、根岸・辻を除く3名は教士であり、年功にとらわれず、実力者を起用したことが見られます。
その他の委員は各地区代表を網羅した剣道家で、台湾代表の名も見え、中山博道氏も東京代表で名を連ねています。幹事としては、武徳会事務理事の市川阿蘇次郎氏が当たっています。
要は前回の剣道形は、武徳会が独走ぎみにまとめ、各地区の意見が反映されなかったことが不成功の原因と見られ、顔ぶれではその是正に配慮しているほか、学校教育の一方の旗頭である東京高師の協力を得るための配慮が見えます。
さてこの様な形で委員会がスタートし、主査が作業して原案を作り、大正元(1912)年10月16日に、主査がまとめた草案を審議して、現行の剣道形と同様の、大日本帝国剣道形が決まることになります。審議内容などについて、次号に続きます。
会 長 武安 義光