梅雨も終り夏を迎えています。平成25年度の事業も計画に従って順調なスタートを切っています。7月2日(火)に新メンバーによる理事会が開かれ、新会長を始め各役職が決まり、全剣連は新たなスタートを切りました。剣道界はポスト60年の歴史を越えて、次の時代への充実した歩みを続けることでしょう。顧みれば昭和62年8月より、「全剣連の窓から」というタイトルの下、毎月誌面を汚してきましたが、締め括りをさせて頂きます。
以下、昭和60年に専務理事として全剣連業務に関係してからの、思い出に残ったことを、いくつか記させて頂きます。
就任してから業務面で色々と気付いたことがありましたが、まずこの広報誌について記しましょう。昭和47年の全剣連30周年の事業として広報誌の発刊が取り上げられて、昭和47年2月に第1号が刊行されていましたが、年数回の刊行で、内容も故人の追悼記ばかりが目立つ状況でした。今後業務を展開する上で、広報誌の整備が、施策の理解を求めるため最も重要であるとの見解の下、その充実を図ることを重点として取り上げることとしました。そのため『全剣連広報』を、少なくとも月刊化しようと提案しました。
当時は専任のスタッフもおらず、片手間で協力しながら発行していたこともあり、記事も集まらず難しいという全員の意見でしたが、これは是非やらねばならぬことと強く要望し、まず私が毎月必ず執筆するからと宣言して、一同の納得を得てスタートすることになりました。
販売の方法はそれまでの地方剣連や団体を通じて読者を募るといったやり方を改め、2,400円の年間購読で全剣連への直接申込という方法を採りました。これら色々の問題を解決しつつ、昭和62年6月『全剣連広報』は第70号より月刊誌として再発足しました。
その後、広く剣道愛好者を対象とした月刊誌を指向して、平成3年2月の第114号より誌名を『剣窓』と改題、「全剣連の窓」は「まど」と改め、第3種郵便物の資格も得て今日に至りました。初期の経過に付いては、節目の号に記していますので繰り返しません。
『剣窓』はその後、専任の担当者も配置して内容も充実し、販売部数も増加して今日に至っています。広報手段が確立したことで、その後の重要施策の展開に当り、大いに働いてもらいましたが、これについては後に取り上げます。ともあれ悪環境の中、尽力頂いたこれまでの関係者のお骨折りに深謝します。
私が全剣連に関係した昭和60年前後は、事務分野への電子機器の利用が急速に普及している時期でした。全剣連でも段位などの登録と管理に、1人1人のカードを使っていた従来の方法が行き詰り、新しい電子機器による方策の導入が必要な時期にありました。
これについて2つの案がありました。①大型電算機を持つ業者と契約し、データをすべてそこに送り、処理・照会などをこれに依存する方法。②小型電算機を持ち、担当者を養成しつつ自ら運営に当る方法。
当時全剣連は、簡単に導入できる①案について、業者からの接触もあり、かなり進行している状況でした。この案は取り付き易い利点はありますが、反面運営費が高く付く他、決められたこと以外の利用についての発達が期待できない欠点があります。
②の案は当初の導入には、担当者の養成など困難が伴いますが、自前で運営を発達させることができる利点があります。そこで全剣連としては、将来の発達と、職員の能力向上が実現できることに賭けて②案を採る方針を決め、導入すべき電算機を決定し、諸般の準備を進め、62年度より電算機による事務処理に移行しました。
この際、外部の多くの方々の専門面での援助を頂きましたが、この中で以前に業務の面で、個人として交流のあった、日本原子力研究所の電算機部門が独立した機関の方々から頂いた、職員の研修・運用への助言など、多くのご援助は大きな助けであり、忘れられないものがあります。
こうして始まった電算機利用はその後発展を続け、会計など事務全般、特に審査業務の能率化に大きな効果を上げてきました。企業で電算機利用を手掛けていた人々の事務局への参画もありましたが、一般職員が皆電算機を使いこなすようになった現状をみるにつけ、30年前に全剣連が採った方策は、当時を顧みると果して旨くいくかどうか、大きな賭けでしたが、結果的に間違っていなかったことが実証されたことに、爽やかな喜びを感じる思い出です。
昭和60年当時の全剣連事務局の住宅事情は一般社会に比べても最悪でした。日本武道館地下の現在資料担当や資料倉庫がある場所に、事務局全員が詰め込まれていました。
登録事務の電算化により林立していた登録のカードを収めた戸棚は無くなりましたが、役員が行っても座って打ち合せる場所も無い、言わば3〜40年前の終戦後の住宅事情といった有様でした。
その後、昭和61年に行った諸料金の改定によって、全剣連運営の健全化への原資を得ることができたので、職員の処遇の改善—国家公務員の勤務態勢に準拠した、月2回の土曜休日制の導入などを行う他、定年延長制の廃止、65歳までの常勤嘱託制度の新設などの改革を行いました。
しかし折からのバブル経済の時代、事務所事情の改善までは、なかなか手が回りません。しかし漸く市ヶ谷・一口坂の途中のNTTのビル(元電話局)が、敷金無しで拝借できることとなり、平成3年4月から九段分室として事務局の一部を移し、武道館地下の事務室も一息付くことができました。
その後平成10年2月に、NTT側の建て替え計画が出たことに関連して、新事務所を求め、現在の靖国九段南ビルに入居し、分室も廃止して安住の地を求めることができました。
昭和27年秋、全剣連が発足して初めて取り上げた大会は、翌年5月に京都・岡崎の旧大日本武徳会武徳殿で開催された、現在の全日本剣道演武大会で、当時は京都大会として行われました。続いては各都道府県の予選を経て選出された選手53名により行われた全日本剣道選手権大会で、昭和28年11月8日、東京・蔵前国技館で第1回大会が開催されました。
その後、会場・期日は変更が繰り返されましたが、北の丸公園に日本武道館ができてから、ここが会場になり、昭和57年の第30回大会から11月3日に定着し現在に至っています。
さてこの大会は、出場資格が年齢・段位など一切の制限を設けずに、各都道府県の予選を経た選手により、優勝を争われる戦前に無い画期的なものとして、一般の評価も得て新しい剣道界の看板試合として開催されてきました。
ところが昭和58年の大会終了後の検討において、試合が長引き、内容の低下が目立つといった一部の批判が噴出し、対応策として、出場選手の資格を六段以上に制限すること、また試合の積極性を増すため、延長2回で勝負がつかない場合は、判定により勝負を決することとして、59年の大会から実行されました。
この決定は、最も権威ある大会の運営の原則を、簡単な審議で決定するという軽率な処置だったと感じます。元に戻すのは必ずしも容易でなく、平成6年の第42回大会から漸く五段以上の出場を可能にし、平成7年より20歳以上の成年で、段位制限無しと、原点に戻って行うこととし現在に至っています。10年も無駄な回り道をしたというべきです。
大日本武徳会が明治28年に設立されて、早速作られた武徳殿は明治32年に竣工しましたが、平成11年に建立100年を迎えましたので、5月の全日本剣道演武大会の際に記念式典を行いました。記念事業として記念碑を造ろうということになり、京都府剣連・吉田市太郎理事長(故人)のお骨折りもあり、全剣連と共同で立派な石碑を造ることになりました。
高さ4メートル超の黒御影の石碑
石碑の碑文をどうするか、誰に揮毫を頼むかということになりましたが、結局「現在の剣道の責任者が書くのが、一番問題が無い。字は下手でもよい」という吉田理事長の意見で、私が書くことになり、「武徳薫千載」という字句を考え、揮毫した次第です。この経緯は『剣窓』平成11年6月号の「まど」に記していますので、ご参照ください。
今月は誌面が尽きましたので、続きは来月と致します。